このエッセイの考察は、私たちを苦しめる「現実」は、「私たちの外部に客観的に確固不動のものとして存在しているものではない」のではないか、という疑問から出発します。

「現実」とは、私たちが目にするものや人の姿という「表象」と、それらが時間に沿って現れるひとまとまりの「出来事」を、私たちが認識し、それに「意味」を与えることによって初めて意識されるものであって、「自分が誰であるか」という自己認識は、そうした「現実」の投影なのです。

「意味」は、私たちが所属している、家族、学校、会社、社会などの共同体が、私たちに要求する「望ましい役割」という「ものがたり」によって与えられます。同じ「表象」と「出来事」であっても、それがどのような「ものがたり」に編集されるかによって、私たちが意識する「現実」の意味は異なり、「自分が誰であるか」という自己認識も左右されるのです。このように現実が、「表象」と「出来事と「意味」の関数として決まることを、私は「ものがたり方程式」と呼び、「意味」を決定する「共同体」「自己愛」「ことば」という変数をパラメータ、「肉体」を定数と呼ぶことにします。

パラメータの「自己愛」とは、共同体において自分が「望むものがたり」の「望む配役」でありたいという願望、共同体から除名される恐怖の裏返しであるところの情動です。簡単にいうと「ものがたり」に合わせようとする欲求、「ものがたり」によって自分の幸福が左右されると思う気持ちが、「自己愛」です。「自己愛」は、共同体で生きる人間の行動を支配する最も大きい動機であり、「人間に苦しみをもたらす関係性に対するあらゆる欲望(貪欲、嫉妬、妬み、支配欲、所有欲など)」として定義される、仏教の煩悩に近い概念です。

一方、共同体というパラメータは、「それを維持する意思を持った人々の集まりである」と定義できるので、人間は一生の間に、家族、学校、会社、社会などの複数の共同体に同時にあるいは時間をおいて所属することになるので、当然「現実」も複数存在し、その反映である「自分」も複数存在します。「自分」とは、「『自己愛』というスクリーンに投影された、共同体の他の構成員からの視線として意識される私」だからです。

ヘレン・ケラーの幼い時の体験は、ことばがなければ、たとえ表象と出来事を知覚していても、そこから世界という現実が構成されることはなく、従って「私」という意識は生じないという、「ものがたり方程式」の妥当性を示す有力な証拠です。また「ことば」は共同体の中で成立し、「ことば」が共同体を成立させるという関係も重要です。

肉体は、私の「入れ物」であるという点で一生変化しないので、「ものがたり方程式」の変数ではありませんが、「共同体」や「自己愛」という変数と相互作用する、方程式の定数です。

肉体の定義は色々ありますが、「肉体とは、鏡の中に映った「自分」である」という定義が最も重要です。肉体は、共同体の「望ましいものがたりの望ましい役割」を私に求める人々の視線を、「自己愛」というスクリーンに照射し、「自分」という像を浮き彫りにする、レンズのようなものだということです。その像が共同体の求める価値に合致しないとき、レンズである肉体が、「本来の『自分』ではない」という感覚が生まれ、その不安と恐怖が人々を自傷行為や他人を傷付ける行為に走らせることもあります。

人生とは、自己愛という土台、共同体という壁、ことばという屋根によって作られている、「ものがたり」という家屋に住むようなものです。外には荒野が広がり、異界人がはびこり、地の果ては断崖絶壁が虚無の底につながっていると、私たちは信じています。

「ものがたり」に対するこうした「信仰」が、日本人の「生きづらさ」や「ひきこもり」の原因になっており、またしばしば「ばけものがたり」に変貌して、人々を抑圧し、侵略し、強姦し、殺戮することを、これから続くいくつかの章で明らかにしていこうと思います。

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