「内なる法」とは、私たちが行動するときの基準となる、「そうすべきでない」「こうすべきである」という基準です。一方、「外なる法」とは、単純に窃盗は犯罪であるとする法律であったり、「万引きをする少年は、ちゃんとした大人になれない」という、共同体が私たちに要求する「望ましさ」だったりします。

「人殺し」の是非をめぐって「外なる法」と「内なる法」の関係を考えます。

戦争のような状況では、「外なる法」が殺人を奨励します。ロシアに侵略されたウクライナの兵士やレジスタンスに加わる国民は、「外なる法」と「内なる法」が一致しています。

一方、戦争や大量虐殺に正統性は無いと確信し、「内なる法」に従って「外なる法」に従うことを拒否する場合もあります。しかし大部分の国民は、「内なる法」に従って「外なる法」に従わなければ、自分にとんでもない災難が及ぶことを知っているので、自分を守ろうとして「外なる法」に従います。これが自己愛です。「空気に従う」日本人もこのパターンです。

結局、共同体の「ものがたりに支配されている」ということは、自己愛のために「内なる法」と背反する「外なる法」に、「内なる法」が浸食されている状態を指すことになります。そして、「ものがたり」の支配力は、共同体が私に強いる「望ましさ」である「外なる法」が、私の行動基準である「内なる法」にどれほど影響を及ぼすしているか、という度合いによって決まると言えます。

日本人の生きづらさは、「外なる法」によって「内なる法」が浸食され、融解してしまった時に感じる葛藤だと言えますが、「望ましさ」の基準が「空気」であるような「ムラ的共同体」の場合は、それを理解し自分の行動原理とすることには大きな困難が伴います。

日本では、「合目的型共同体」である会社や政党の中にも、しばしば「血統型共同体」の性質をもつ「ムラ」が生まれます。「ムラ」とは共同体が求める「望ましさ」に客観的指標が無く、「その共同体にだけ通用する人間関係、習慣、大勢、空気といったようなもの」で決まる場合を指します。その原因は、日本人が「ムラ」の空気に反し共同体の中で「浮いてしまう」ことを何よりも恐れるからですが、目的と手段が混同してしまい共同体の構成員が、合目的に行動できなくなっている側面もあります。

日本人は、そもそも論理と実証を行動原理とすることが苦手で、そこには日本語の特性が大きな影響を及ぼしています。それらの特性を「主観化する日本語」(「気持ち」をやり取りする言語)「共観する日本語」(言外を表現し伝達し理解できる言語)と呼びます。

主観化する日本語の特性は、G7でずっとトップを占めている日本人の自殺率の高さと無関係ではありません。対象を「私」の感情によって「主観化」するということは、本来客観的であるはずの世界が、自分の幸福不幸を左右する絶対的な存在として、私の前に立ち現れるということです。空気が支配している「今、ここにある世界」(共同体)は、唯一無二のものであって、ここに居場所が無くなれば、自分は死んでしまう、と思い込んでしまうのです。

一方「選択し、決断し、責任をとる主体としての自我」を持ち、「外なる法」とは独立した「内なる法」を行動原理とする人間は、「今、ここにある世界」を客観的に、つまり世界と自分自身を上から俯瞰して見ているので、世界を相対化でき、世界は、私の外に確固不動のものとして存在するのではなく、共同体、ことば、自己愛、肉体によっていつも揺らいでいる、「ものがたり」に過ぎないことを知ることができるのです。

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